やり方を強要してくるAくんにどう対処しようか?
目次
なんでこんな記事を書いてみようと思ったか?
ぼくが日常的に接する人の中で、かなりぼくを苛立たせる人がいる(ドイツ人)。
仮にAくんとしておこう。ぼくのブログ記事ってAくんばっかやな。
このAくんの話は、書いていると割と長めになってきたので、シリーズ化していこうと思う。
こんなドイツ人もいるよ、という紹介
ドイツ人って日本人から見たらどんなイメージだろうか?
他人を尊重し、プライベートなことを守る。。。そんなイメージがどこかないだろうか?(ぼくにもありました)
確かに、そういう人もいる。ぼくのドイツ語教師は本当に、他人の意見と自分の意見をきれいに線引きして話ができる人だ。
しかし、みんながみんなそういうわけでもない。
と、いうことで、「こういうドイツ人もおるんやで」という紹介のつもりで書く。
自分の感情コントロールのため
日常的に苛立つとはいえ「あいつはマジムカつく!!イライラ!!」だけを言い続けてもどうにもならない。それじゃあ、子どもと何も変わらない。
彼の振る舞いをなるべく客観的に説明して(論理的に悪口を言う)、ぼくの苛立ちの原因を明らかにしてみようと思った。
ぼくが苛立つメカニズムを自覚できれば、ぼくの行動でも対処できるかもしれないし、気持ち的な対処できるかもしれない。
そう思って、記事を書いてみることにした。
自己反省のため
ぼくが苛ついた感情を持つということは、心理学的には、「投影(シャドウ)」と呼ぶ。
そうやってAくんの行動を分析をしていくうちに、「ぼくにも似た部分があるぞ」とも感じ始めた。
自分の行動を反省する意味も込めて、あえて自分の嫌なところも含めて書いてみることにした。
他の人の参考のため
こうして書き出していくうちに「もしかして、ぼくが感じるコミュニケーションミスとネガティブ感情は普遍的に起こりうることなんじゃないだろうか?」と思い始めた。
そして、「もしかして、似たような人に苛立っている人がいるかもしれない」とも思い始めた。
と、なると、考え方は誰かの参考になるかもしれない。
そう思って、書いてみることにした。
本人に言えばいいじゃん?と思った方
実はもうやっている。
伝え方も「ぼくは~という対応は嬉しくないので、~という風にしてくれないか?」と何度かやってみたことがある。
しかし、変わらない人というのはいるもので、効果がなかった。
となると、ぼくの側で感情処理するとか、対処行動をしていくしかない。と、ぼくは思う。
Aくんは他人が自分のやり方に従わないと気がすまない
Aくんは、「自分のやり方が良い」と信じている。それは別にいいのだが、Aくんのやり方を他人に押し付けてくる。
例えば?
ソフトウェア開発の場面で。Aくんがぼくの画面を覗き込んで言う(別にチェックしてくれと頼んでいない)
- Aくん「この書き方はよくない。実行速度に問題がある」
- ぼく「そうかもしれないけど、いまはプロトタイピング段階なんだ。だから、実行速度よりも早くソースを書き上げることを重視しているんだよ」
- Aくん「しかし、実行速度に問題がある。〜という書き方をするべきだ!よし見せてやるよ(Aくんが、傍らに座って比較のソースコードを書き始める)」
- Aくん「(しばらくして)ほら!どうだ!おれの書き方の方が実行速度が早いだろう!(数ミリ秒の差)」
非常に迷惑である。
これってどういう心理なんだろう?
この現象は「~行動」と呼ばれています、みたいな症状名が見つかるとよかったが、残念ながら見つからなかった。
でも、近いことを言っている記事を見つけたので、紹介しておく。
ちなみに、Aくんは自分の知識が正しいと思っていることがよくあり、頑固であり、正義感とルールへのこだわりが強く、おせっかいやきである。
いつか、別の記事でそのことも紹介しようと思う。
ぼくの苛立ちの原因はどこにある?
あまり説明するまでもないかもしれないが。
勝手にやってきて、勝手に自説を押し付けて、他人を従わせようとする。。。って無条件にイラつきません?
忙しいときは、なおさらである。
どう考えると建設的になれる?
ぼくは「インド・イスラム人化」という対処法を開発した。これは2つの方式の混合である。気分によって、どちらでも良い。
まずインド人化から。ぼくはステレオタイプとして「インド人のOKほどあてにならないものはない」と考えている。
そんなインド人の気分になって「OK、OK〜」と言いながら首をインド式うなずきをするのだ。参考記事
Aくんが「〜のやり方でやるべきだ」と来たら、ぼくは「OK、OK〜(首ふりふり〜)」とすればいい。
イライラはどこかに消えてしまうくらい、どうでもいいレベルで受け流しができる。
次にイスラム化。
アラビア語には「インシャー・アッラー」(ペルシア語では「エンシャー・アッラー」ということもある)。
意味は「神のご加護があれば」というである。
イスラム教徒がこの言葉を口にした時は、まず「了解」ではない。むしろ「わかった〜(やらないけどね)」の方が正しい。
したがって、Aくんが押し付けをしてきた時は「インシャー・アッラー〜?」で良い。
え?お前、イスラム教徒と違うやろって?
日本人はたくさんの神を受け入れるありがたき民族なのです。南無阿弥陀仏、アーメン。
自分にもそういうことがないだろうか?
過去のぼくも確かに似たようなことをしていた。
かなり苦い思い出なので、ここで具体的に書くことは避ける。
しかし、ぼくは一時期、転職の方法について自分の考えるやり方が正しいと信じて、他人に押し付ける姿勢をとっていたことがあった。
いまはどうだろう?いまはかなりそういうことはなくなった。
もちろん、そうしたくなるときも時々ある。自分のやり方を押し付ける方が早いし簡単だからだ。
でも、そういう時は、相手に聞くようにしている。「~っていうやり方のメリットは何があるの?ぼくは知らないから教えてほしい」
これで十分である。
聞いた上で、自分のやり方の方がまだ正しいと信じるならば「こういうやり方もあるよ。知っている?」と聞けば良い。
相手がその方法を知っている上で、あえて別の方法をするなら、話はおしまい。それは相手の選択である。ぼくの選択じゃない。
相手がその方法を知っていなければ、教えてあげればいい。それで話はおしまい。
どちらにせよ、過去のぼくもAくんと同じことをやっていた。
と、いうことはぼくのどこかには、他人にやり方を強要したい自分も潜んでいる。
それを自覚しておくだけで十分だと思う。少なくとも、いまはそれでいい。

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